2025年6月29日(日)宣照寺支部 野外懇親会 を開催しました!
久しぶりに開催された宣照寺支部 野外懇親会は、午前10時に宣照寺に集合しました。御住職様からの御指導を拝聴した後、自家用車に分乗してアクトパル宇治へ移動しました。当日は天候にも恵まれ、楽しい1日を過ごすことができました。
今回、参加者数は18名(大人14名・少年部4名)でしたが、御住職様と共に火を起こし、出来上がった料理をいただいた参加者全員は、御住職様との距離が縮まったと思います。
今後も皆で楽しく信心が学べる計画を立てて実行していきます。開催予定は、お寺&当メンバーページでも告知しますので、皆さんどんどんご参加ください。
堀田御住職様からの御指導(アクトパル宇治へ向けて出発する前、本堂にて)
皆さん、こんにちは。
御参詣御苦労様でございます。
本日宣照寺野外懇親会という行事であります。
御本尊様に感謝申し上げながら、参加者同士が親交を深め、本日より切磋琢磨して精進してまいりましょう。
さて、本日の野外懇親会に当たり、幹事さんから信心と食べ物についての質問がありました。
それは、この幹事さんが入信する前、教化親の家に足繁く通っていたころに質問された内容であります。
(幹事さんの質問)
イスラム教は豚肉と酒、モルモン教はコーヒーが禁止とかっていう感じで禁止されている物がありますが、日蓮正宗に入ると、宗教上の理由で、食べ物や飲み物に制限は出ますか?
仏教は「殺生はダメ」と言われているイメージがあります。
肉も魚もダメ。生きてる物は全て殺生してはいけないというお坊さんもいれば、肉はダメだけど魚は良い。という話も聞いたことがあります。その理由はなんでですか?
(教化親の回答)
肉(動物)は殺した時に苦痛で目を閉じるが、魚は殺した時に目を閉じない。つまり動物を殺すと動物を苦しめる=殺生になるので肉は食べてはいけない。
だけど死んでも目を閉じない魚は苦しみを感じないから殺生にはならない。だから魚は食べても良い。
と言われたそうであります。
そして、この幹事さんは、さらに次のような質問をされました。
(幹事さんの質問)
仏教=肉食の禁止という教えというか風潮がどうにも納得がいかない。食物連鎖やから人間が生きるために肉や魚を食べるのは仕方がないことなのでは?日蓮正宗では、肉や魚を食べるということをどう考えるのですか?
(教化親の回答)
日蓮正宗でやってはいけないことは、日蓮正宗以外の宗教を信じたり、手を合わせたりすること。それ以外なんにも無いよ。何を食べたらダメとか、酒を飲んだらダメとかって禁止されてるものは一切無いよ。
その理由は、仏道修行と肉や魚を断つこととは関係がないのに禁止する意味が無いからなんだよ。大昔、お釈迦様が悟りをひらくために修行されていた時、ありとあらゆる種類の修行をなさったんだよ。
あなたは仏教の「修行」って聞いたら何を思い浮かべる?
(幹事さんの回答)
寒い時に滝に打たれたりとか。断食とか。肉や魚を食べないとか。山にこもって、わざとにしんどいことしたりとか。写経とか。鉢を持って一軒一軒家を回ってお経唱えてお布施もらったりとか。そういうお坊さん、たまにうちの町内にも回ってきます。
(教化親)
そやろ?笑 そんなもんは本当の仏教の修行とは関係ないんやよ。あんたが思い浮かべる「修行」っていうのは、大昔にお釈迦様が生きておられた時に、お釈迦様自身がそういう修行を実際にやった上で、「これは本当の仏教の修行とは関係が無い行為だ。そういう荒行苦行っていうのは今の時代に合っていない。時代遅れな修行である。意味がないこと。」と、判断なさったことばかりなんよ。
荒行苦行をして自分の体を痛めつけたり、断食をしたりして、まともな思考能力が落ちた状態では、修行どころか日常生活の弊害にすらなる。
だから、日蓮正宗の御僧侶も、私らみたいな信徒も、肉も魚も食べるよ。食べるものはちゃんと食べて、しっかり栄養を取って、自分と、自分の周りの他人を幸せにできるように、生きていくことのほうが大事なんやで。
ただね、肉や魚っていうのは動物や魚の命を奪ってることには変わりはないんだから、無駄なことはしたらアカン。食べた肉や魚のおかげで自分の命をつなぐことができるんやから、その動物や魚に対して「命をいただきます」という意味においても、ご飯を食べる前に必ず、題目三唱して、「いただきます」と感謝して、私は食べてるよ。肉も魚も。なんでも。
という話を、教化親から教わったそうであります。
要約いたしますと、この幹事さんは「信心と食べ物」について、
・日蓮正宗では、宗教上の理由から「この飲食物を摂ってはいけない」と禁止されているものは何もない。
・世間の人々が肉や魚をエネルギー源として食べるのと同様、日蓮正宗の信徒も、肉も魚も食べても良い。
・農家の人、畜産業の人、漁師の人、それらの食物を輸送してくれる人、店頭にて販売してくれる人、自分が食べられる状態に調理してくれる人、食べ物には非常に多くの人の手がかかっており、肉や魚のみならず全ての食物によって自分の命をつないでもらっているということに対して感謝をしなければいけない。
・そして、食用の肉や魚となる家畜や魚の命のおかげで、自分がもらったエネルギーを、善いことに使うのか、悪いことに使うのか、そこが非常に大事である。
・自分が食べた肉や魚からもらったエネルギーを一体どのようなことに使うのか。折伏をするのか?泥棒をはたらくのか?では、その食肉となった家畜や魚にとって意味合いが大きく変わってしまう。
・信心している者として、自分の命をつなぐためにいただいた動物の命によって得たエネルギーを、無駄にすることなく、どのような善い活動のために活かせる自分になるか。これが大事
ということを学ばれました。
私も、このことは非常に大切な事柄だと思い、総本山の御僧侶にお聞きし、次のような御指導をいただきました。
大聖人様は「日蓮はさせる妻子をも帯せず、魚鳥をも服せず」と仰せのとおり肉食はされませんでした。
蛇足ですが、お酒は御自身もたしなまれたとする説もありますが、御書も解釈の仕方によりますので、断定できません。
薬として少量を用いられたとする説が有力でしょうか。
化儀抄にあるとおり、仏様には茶湯ではなく酒を供えるのが日本の習いですし、日本の律令でも僧侶の飲酒は禁じられていなかったとか。
「般若湯」の語が登場するのは滅後のことです。
他の宗教の豚肉などの禁止や、時間帯による制約も、地域の気候により食当たりなどを避けるための教訓が、いつしか戒律になるなどした例が多いようです。
動物によって、可否があるなど、およそ命の与奪による理由ではないでしょう。
兎を一羽と数えるのも四つ足を嫌うからと言われますが、耳が鳥のようであるからとの説が有力ですし、仏教ではなく大本は神道の考え方だとか。
生命ということで言えば、仏教では有情と非情にわけますが、非情の成仏が説かれることからすると、そこにも生命・心を認めます。
ベジタリアンにも段階があると言いますが、厳密に殺生を禁じたら、何も口にできません。
肉食や五辛に関して富木常忍が質問したとき、大聖人は『四信五品抄』を著されて戒定慧の三学を示されて、直接質問には答えられませんでした。
末法無戒という言葉もありますが、最も重んじるべき戒、持つべき法が大切なのであって、その他の振る舞いは付随して整っていくとも言えます。
日興上人が病気の弟子に、「魚も鳥も病の者には給ひ候て、命生けて仏法ひろめ給ふべし」と指南されたのは有名です。
日亨上人も『魚鳥食開訓』を示されていますが、仏法を弘めることが当然第一義で、そのための身体を整える手段として栄養摂取を優先されたものと拝されます。
「いただきます」の語も実は、100年も歴史がないと言われているようですが、暴飲暴食せず、常に糧となる生命と生産者に感謝を忘れないのであれば、人の道にも、法にも外れないのではないでしょうか。
そのなかで、「私は口にしない」という人がいても差し支えないことですし、いずれかの選択を他者に強制するものでもないと思います。
との御指導をいただきました。
まさに、法を広めるために自分自身を整えることの大切さがよくわかりました。
大聖人様の教えを広めるための糧ととらえながら、すべてに感謝申し上げましょう。
そして、さらなる精進を御本尊様にお誓いいたしましょう
以上、少々申し上げた次第でございます。
本日は宣照寺野外懇親会への御参詣、まことに御苦労さまでございます。